中村天風財団OFFICIAL書籍・CDサイト

この企画は天風会創立百周年記念事業の一環として、天風先生が「病と煩悶と貧乏」という人生の三大不幸を軽減するために心身統一法を教示されてこられたことに倣い、我々弟子が、それに対する「健康・長寿」「心の平安・安心」「繁栄・成功」という観点から改めて学んでみようという試みです。前回は「健康と長寿」をテーマに未病治療について、ハーバード大学研究員の天野暁医学博士のインタビューをお届けしました。
今回は「心の平安」をテーマに、担当の山田真次講師が村里泰由氏の「日本縦断、徒歩の旅」の体験から得られた心の在り方についてお話を伺いました。

◆ゲスト 村里泰由氏(中村天風財団理事・講師)

◆インタビュアー 山田真次(中村天風財団講師)


(向かって左・山田氏  右・村里氏)

【歩くことで宇宙観を掴みたい】

 

山田 松尾芭蕉の言葉の中に「人生は旅である」というのがあります。旅をする中でいろいろと人生と同じようなことを芭蕉は実感していて、そういう言葉がふっと出てきたかのかなと思ったのですが、村里先生は日本縦断の旅をまとめられた冊子で、「旅を始める前に、宇宙を実感したいという思いがあった」というふうにお書きになられていますけれども、宇宙を実感したいというのはどういう思いだったのか、旅を始めようとしたきっかけも含めてお話をいただければと思います。

村里 やっぱり天風先生の教えが全部ベースにあって、宇宙霊も教えていただいたし、宇宙観、大自然のスケールもいろいろ教えていただいた。ただ、実感として持っていないんですよね。理屈は十分わかっているつもりだけど。だとしたら、それが少しでも感じられたらいいなって。
実はこれ、一番ポイントなのですが、地球の半径が大体六千四百キロくらいです。地球スケールで言うと、マントルのど真ん中へ行く距離の半分くらいが日本縦断で歩く距離になる。そういうスケールを感じてみようと、そんな思いがあったんです。その宇宙観を掴むのに、車に乗って掴めるものじゃない。ならば自分のこの二本の足でということになり、歩こうと思ったのが始まりです。

山田 なるほど。教えの実態は目に見えないだけに、普段天風会で行じていても、なかなかそれを自分で感得、実感することは難しいという部分があるので、それを実感されたいという思いですかね。

村里 具体的には、クンバハカと安定打坐とプラナヤマの三つの教えを、もうこの三つの教えさえあれば十分だというのはわかっているけど、実際にどんなふうに自分の中で体験でき、すべてのことの答えになっているだろうかと思い、「じゃあ、やってみようか」という、これが一番大きかったですね。

山田 私は天風哲学における「心の平安」について考えるという企画を担当させていただいて、今回その第一回目ということで村里先生に対談をお願いしたわけですが、それは日本縦断の三千キロの旅をする中で実感された人生観や宇宙観を直接伺って、心の平安ということのヒントを私も感じられたらなと思ったからなんです。

村里 そうですね。今言った宇宙観という目に見えないものを掴みたい、それを感じるためには目に見える毎日の事柄の実行というものがあると思って。この旅の場合は一日二十五キロ歩くのが毎日の目安。四日で百キロで全行程を計算しました。二十五キロって実はたいした距離ではないんですよ。昔の人は三十五キロくらい歩いているものね。

山田 ああ、そうなんですか。

村里 そう。だから、京都に行くのでもかなり早い日数で行っている。でも、そのために見えるものがあるというかな、旅の目印が毎日あるんです。ただ、私の場合その先に宇宙観を実感したいという目的がないと、毎日歩くだけが目的になっちゃう。宇宙観を持ちたいという大きな目的は、先が今は見えない。だから見えるもの、何か目印を毎日やっておくしかないと、それは実感しましたね。だから、後付けの理屈かもしれないけど、目に見えるものと、目に見えない大きなもの、この二つを持ち合わせたら大概のことはできる。日常の生活で目先のことはいっぱいあるけれど、大きなものが先にないと信念にならない。天風先生のおっしゃる大欲にならないのかなという気がします。

山田 そういう大きな欲というものが先にあると、日常生活そのものもゆるがせにできなくなりますね。

村里 国語と算数です。国語で「宇宙観を実感したい」というのがあるんです。一方の算数は、歩く距離は毎日何キロとあるんです。国語と算数が一緒にならないと駄目なんです。算数だけだと、「じゃあ、三三三〇キロ歩きゃいいんでしょ」になっちゃうものね。

山田 ずっと先に何かあると、今の日常を切り抜けていくというか、その原動力とすることができる。

村里 その国語の部分を要するに理念と言えばそうなるだろうし、信念ともいえる。一歩一歩は何でもないように思えるけど、それがないと辛いことが多くなるんじゃないかな。

山田 そうですね。日常生活を送る中で、苦しいことを楽しいことに変えようとするときに、この苦しさは実りになるための苦しさなんだと思えれば、乗り越えられるのかなと思います。それと天風先生がよく「情味」っておっしゃっていましたけど、一歩一歩歩いているときに、見慣れた景色もちょっと旅人になったら違って見えるとか、「ああ、こんなところにタンポポが」じゃないですけど、そういう目に見えることで癒されて、毎日歩く大変さも乗り越えていけるのかもしれないですね。

村里 確かに、田んぼに風が来ると、稲穂がそよいで風がパッと見える。「あっ、いいな」と思う。きれいな花があると、向こうが「写真撮ってくれ」って言ってくるような気がするのよ。重いリュック背負ったまま泥のあぜ道へ下りて写真撮ると、しまった、立てないんですよ。「座るんじゃなかった」と思うけど、バチッと撮るとタンポポがいい顔で、写真が上手くなりましたね。

山田 被写体の捉えどころが、心と一致する。

村里 そう、今まで写真はただの瞬間を撮るだけだと思っていたら、違うんですよね、それがよくわかったんです。きっと「精神使用法で、モノと心の矢印」ってあるじゃないですか。まさにモノの方から入ってくる感覚なんですね。だから、さっきおっしゃったように、情味という言葉でもいいのかもしれない。ただ、苦しみを乗り越えてなんて、ちょっと……。まだまだ、私。「苦しみさえも喜びなんだ」というところまでは・・・・・。

 

【楽を求めず、ただただ感謝】

 

村里 こんなことがあったんですよ。北海道までいいリズムで行きました。修練会の担当があったのでこっちに帰ってきて、修練会終わって、また、南の方へ、九州から歩き始めたのね。八月のけっこう暑い日だったんですね。十日くらい休んじゃったからゆっくり行こうと思って一日十五キロくらいに距離を短くしたの。ところが楽じゃないんですね。膝は痛いわ、なんか変だなと。四、五日してから距離を二十五キロに戻したんです。いつものリズムにしたら治ったんですよ。気なんだね。十五キロでいいやと思って歩いていたのと、四日で百キロのリズムに直したのとでは、気がぐっと入るから、痛みが減っていくんですね。

山田 心が関係してくるという典型ですね。

村里 まさに心。天風会での〝心の置き所〟の実例みたいなことです。「膝の痛みがそれで取れるの?」という話になるんだけど、気持ちを切り替えたことで歩き方も、「何か変わったんだろうな」と思いました。

山田 身体の使い方ですね。おもりの実験の「回る、回る」と同じことですよね、結局。自分で回るって思えば、体もそれに呼応するわけでしょう。歩くぞと強く思えば、一番適切な動き方ができる。

村里 「距離増やしたら、なんで痛くないんだろう」と思ったけれど、怠けている心があったんだろうな。自分の中でちょっと調整していたのが、「えい、行っちゃえ」となったら、もうOKになった。心の安定ということでいくと、その辺の中にもあるのかもしれないですね。

山田 でもこれだけ歩いていると、晴れている日ばかりでなくて、いろいろな季節感も感じるでしょうし、台風もあったでしょう? 今日は歩かなければよかった、と思うようなときはなかったんですか。

村里 歩きたくないと思ったときは、「ありがとう、感謝します。ありがとう、感謝します」、と言って歩くんです。大雨になると、カッパくらいじゃ全然駄目で、びっしょりなんです。メッシュの軽い靴履いてるから、もう足もぐじゅぐじゅになっちゃう。厚い靴下履いてるから、すごく気持ち悪いんですよ。でも「ありがとう、感謝します」と言って歩いていると、言っている間は平気なんです。「なんでこんなことやっちゃったかな」という気持ちは、その言葉で完ぺきに打ち消されますね。「ありがとう、感謝します」は絶対効果があるから、何か辛いときには是非やってみてください。

山田 「ありがとう」という言葉はなんか不思議な力がありますね。

村里 天風先生も、心の平安は最後は感謝ということに行き着くとおっしゃっていますね。絶対感謝というのは、宇宙霊と繋がることだと思うんです。まさに真善美だし、宇宙の心になっているから感謝が出てくるのだと思うから、もうそれは安定打坐の世界じゃないかな。

山田 そうですね。今生きてることに感謝することは一番の自己暗示だ、というふうに天風先生も書かれていますね。だから、朝起きたら、すぐに生きていることに感謝するのだと。

 

【何かあるのが人生、心を人生に乗せて任せる】

 

山田 北海道ですごく長い真っ直ぐな道があったそうですが、そういうときは足が弾みますか。

村里 歩きました、二十九・一キロ。真っ直ぐで、平坦で、アップダウンなくて、先の方まで全部見えている。そのつまらなさといったらない。天風先生の言葉ではないけど、「毎日、同じ新聞が来てみろ」って感じですよ。

山田 平坦な道は歩き易いような気がしますけど。

村里 普通はせっかく上ったんなら、下りたくないと思うじゃないですか。次また上らなくちゃいけないから。理屈で考えるとアップダウンってイヤだよと思う。カーブだってイヤなんですよ、真っ直ぐ行きたいんです。ところが、何も障害がない真っ直ぐで平らなところに来たときに、「ああ、なんてつまんないんだろう、単調なんだろう」ってなる。全部見えすぎ。

山田 我々、結果を追い求めるけど、そういう意味では結果がわかっていないほうが楽しいんですかね。ついつい結果のことばかり考えるけど。

村里 天風先生の言葉で言えば、「何かあるのが人生だよ」なんだろうね。そこを楽しんでいきなさいということなんだな。見えていたらつまらないだろうと。

山田 見えてて、平坦で、変わらないというのと、心が安定するというのとは全然別のものですかね

村里 心は暴れます。暴れ始める、見えすぎてて。

山田 それも面白い心理ですね。

村里 うんざりなんです。だって、わかっちゃっているんだもの。二十九キロ見てたらイヤだよ。

山田 心は安定しないわけですね。

村里 安定しないですね。心の安定といえば、沖縄で二十キロくらい先に名護の街が見えたんですね。かなり遠くだけど、きれいに見えてて、そのとき一瞬、「あんな遠くまで歩くのか」と思ったんです。
でもすぐ、それをパッと考えないようにして、足に任せて、足をただ普通に動かしていくようにしたんです。心は乗っけていくだけ、もう足の動きは距離感ばっちりだから、時間通りに着くんですよ。だから何も考えずに足だけ動かしていて、心は乗っけておけば着くんだというのがわかった。その後、ものすごく楽になりました。

山田 心を乗っけておくんですか。

村里 それは安定打坐なんですね、きっと。心を乗っけているだけで考えないんです。あとは足に任せて歩く。

山田 何も思わない。

村里 何も思わない。思うと辛いんですよ。でも、時間通りに着くから、絶対平気って。新幹線に乗っているみたいなものだから、何時に着くな、あとは足に任せておけばいいやと歩いていけば、その通りに着くんです。心は安定打坐、身体はクンバハカ。これで行けば、どこまでも歩けるんじゃないかと閃いた、というのがこの東シナ海。

山田 心は安定打坐、身体はクンバハカですね。なるほど。それは心の安定ということにつながりますね。

村里 つながると思うね。

山田 やはり結果を求めるというか、それは日常生活を送る中では仕方ない。だけど、そこに囚われすぎていると、心が辛くなってくる。じゃあ、その心を一つ、どこに置いたらいいのかというところですよね。

村里 考えないんじゃない。任せちゃうのかな。

山田 足に心を乗っけるっていいですよね。人生に心を乗っけておく、みたいな。

 

【街中の宇宙観】

 

山田 北海道みたいな大自然の中を一人で歩いているときと、街中を歩くときもあるわけですよね。そこで感じることに何か違いというか、宇宙観というものはどうでしょうか。

村里 街中で、これやっぱり現代人の性なのか、本質だなと思ったのは、交差点で歩行者用信号が点滅を始めると、日本縦断の重いリュック背負っているのに走り始めるんですよ。「なに、これ?」って。だって、急がなくたっていいんだよ。なのに、「点滅してる、走る」、街中にいるとそうなってしまう。「これでいいんだっけ?」って反省しました。これでは宇宙観なんか全然感じないものね。

山田 潜在意識にインプットされているんですね。でも、私たちはどちらかと言うと都会で毎日生活をしているわけで、都会の中で何か宇宙観を感じる術というか、何かヒントというか。

村里 実際は、私にとっては街の中も旅の途中なんですね。普通、旅というのは、例えば新幹線に東京駅で乗ったときから始まるんですよ。乗り物がその節点になって、そこから旅と日常の境目がはっきりとする。ところが旅といっても、家を出て最初からずっと歩いていると、その境目がない。歩いていてどこで気がついたのかな、東北だったか、「僕って、どこで旅人になったんだっけ」と。
ということは、街も大自然の一本道も全部私の世界なんですよ、歩いてくると。ここから人の家でここから何々県ではなくて、ずっと切れ目なく歩いてきた結果がここだから、そこまでは全部私のゾーンなんですね。だから昔の旅人は、そういう豊かさがあったんじゃないかなと思ったな。その感覚も一つの宇宙観じゃないのかな。

山田 日常が旅、という実感が伝わるお話ですね。

村里 あとは人との出会いかな。

山田 やっぱり出会いがかなり大きいですか。毎日全く知らない人に会うわけですね。

村里 いろんな方がいらっしゃったね。北海道でお会いした方で、そのときに泊まったペンションで一緒になって、写真を撮っただけで話もほとんどしてないんです。その人と名刺交換をしたら、彼の方からメール送ってきてくれて、先にもう奈良に帰っているので、「京都で今度ぜひ一緒に飲もう」という話になって、飲んだんですよ。彼、全部お金払ってくれたの。あれ、うれしかったな。その後こちらに見えたとき池袋で今度は私が歓待させていただきました。講師の松本光正先生も、私の日本縦断のホームページを通じてこの方ととても仲良くなられて、都内でお会いになったようです。自然と友人の輪が広がっていったのが嬉しかったです。

山田 あと、若いお坊さんとの出会いもありましたね。

村里 ありましたね、高野山での一年間の修行が終わって、北海道の帯広まで帰る途中でしたが、彼は一日四十キロ以上のペースで、私が長万部の道の駅に着く手前のところですれ違ったんです。「こんにちは」って挨拶して、「どちらからですか」と話が始まって、「私は長万部に泊まります。今日はどちらですか?」と訊くと、彼は「どこも決めてません」と言う。駅やなんかに寝袋で寝ているんです。たまに三日か四日にいっぺん泊まると言うので、「もし、よろしかったら、今日は一緒にいかがですか?」と、私のほうでお坊さんにお布施をさせてもらうつもりで言ったら、「喜んで」と言うんです。夜一緒に、「じゃあ、飲みましょう」と言ったら、「いや、お酒は飲みません」と言われました。全然ちがうんだ、私と。二十四歳。その後結婚して、まだずっとやりとりしてますが。格好よかったよ、あのお坊さん。精悍でしたよ。そういうお付き合いが加わったりね。

山田 人と人との縁というのは面白いですね。普通では知り合うはずのない人と縁ができるということは、自分のあずかり知らぬ力によるわけですから。

村里 宇宙エネルギーの力かな。そういう意味で宇宙的だよね。

 

【歩くことは日常か?】

 

山田 縁を大切にするというのも、心の平安につながるのかもしれないですね。

村里 なるんです、心の平安というのはやはり人とのつながりを感じることで、「孤ならず」だからね。

山田 それを思えば、やっぱり歩いたことで得がたい何かを得たのかもしれませんね。

村里 「で、感じられたの?」と言われると、「いやあ、特に」みたいな。でも、行く前と行った後とは話すことが変わったと言ってくださる人もいますけどね。「村里の話、前はちゃらけていたけど」って。今でもちゃらけているんだけど、前はお笑い取るだけだったのが、今は少しは付加価値がついたかもしれません。

山田 僕も村里先生のお話、すごく迫力が出たと感じましたね。日本縦断の後は、とても心に落ちるものがありました。「自力と他力」のお話を通して、ワクワクとドキドキの違いから人生の未知なものへの心の在り方など、とても興味深く聴かせていただきました。

村里 人生に立ち向かっていくとき、ワクワク、ドキドキする。ワクワクするというのは、ある種の期待感みたいなものがあるんですよ。待っていると来そうだ、ということは他力的であるような気がするのね。ドキドキというのは、自分の中に若干の不安と一緒に、既に生まれつつあるものという感じ。そういう意味では自力だと思う。自力と他力ということになるんだろうけど、この二つを持っているものにワクワク、ドキドキさせられるので、それが創造的未来につながるのではないかと思いますね。

山田 心の平安にもつながるような。

村里 期待して待つだけでなく、ちょっとの不安を押し返してやるような心持ちなんでしょうか。まさにそれがワクワク、ドキドキなのかもしれない。そんなことを思いながら歩いていましたね。

山田 人間というのも、もともと宇宙の根源的なエネルギーが創り出した自然物なわけですよね。だから、やっぱり宇宙観を感得したい、それを感じたいという思いは自然の欲求で、歩くという行為は、自然物としての人間に戻れるのかもしれないですね。

村里 何かそういうものがあったのかもしれないですね。じゃあ、何か悟ったんですかと言われても、それが何か本人はわからない。だからゴールしたとき、そんなに感動はなかった。三千三百キロを歩き切った涙のゴール!なんてなかったですよ。だって、昨日と同じだもの。「あっ、明日やらないでいいんだ」ということだけは分かったけど、「わーっ!」という脱力感もなかった。やり終えたという感覚もなかった。そういう感動はなかったね。「走りきった」みたいなのは、きっとマラソンのほうが感動があるんじゃない?

山田 もう十年くらい前になりますけど、同じ職場で、トレイルランという二十四時間山道を走り続けるレースの世界的な選手と机を並べて仕事していたことがあったんですが、彼から精神力と体力と継続する努力とか、そういうものを学ばせていただいたんです。
それで村里さんが日本縦断をやられたとき、「先生は何で歩いたのかな?」と思ったんですよ。同僚はゴールというものを目ざして走ったわけですよね。二十四時間というものすごい長い距離だけど、ある瞬間、瞬間ではゴールを意識してそれに向かって走っている、彼も体力もあって、精神力もあってすごいのだけど、「じゃあ、先生は何で歩いたのかな?」と思ったんです。そのとき先生の講演でゴールの話を聞いて、「ああっ、村里先生は、ただ歩いていたんだ…」と思ったら、心の底からなんとも言えない感動が湧き上がってきたんですよ。そのときに天風会に入って、だんだん緩みが出ていたときだったんですけど、先生の話を聞いて「あっ、そうだ、日常なんだ」と思って、それで自分の行修をもう一度一生懸命やってみようという、ものすごくいいきっかけをいただいたんです。

村里 歩きながらはっきり気づいたことは、こうして歩くこと以上に、日常の生活を淡々と続けていくことのほうがずっと、ずっと大変なことだということでしたね。

 

【自然体が自分の居場所】

 

村里 この旅は、ある意味居場所探しでもあったんですよ。「私って、どこにいるの?」。地図見れば、埼玉県の飯能市だとわかっているけど、「それって、どこだっけ?」という。結局、自分の居場所探しというのは、人生の目的とか、何のために生きるの? というものと似ているのかもしれない。

山田 自分の存在感を確信したいということですかね。どんな場所にいるか、またはどんな立場にいるかで自分の存在を確認するのではなくて。

村里 その通りです。ここの地点にいるからじゃなくて。

山田 天風先生がヒマラヤの村にたどり着いたときに、村人に「ここはどこか?」と聞いたら、「お前がいて、俺がいるところだ」って。「それだけでは不満なのか? それで充分だろう?」みたいな。そういう村人のように、生きて今ここに居るという確固たる存在感がほしいという思いはありますよね。それがある意味安心立命の境地のような。最後は自分自身で「これでいいんだ、ここに居るんだ」と思えるように。

村里 そう言われるとよく分かる。「自分の居場所ってどこだっけ?」というのは、地名や特別な場所じゃない。「少しその辺をうろうろしてみると、わかるんじゃない?」という感じで、歩き回って来たみたいなところもある。

山田 それで、「こういうふうに私の居場所がわかりました」ということではなくて、自然体になられたんでしょうね。確かに前と全然ちがうということはないけれども、自然体になったということは、本来の自分自身になれた、居るべき場所に安定できたということですよね。それこそ「心の安定」だなという感じがすごくします。ただただ歩く、ということが、やはり何かを創造することになったんじゃないでしょうか。

村里 歩いているときというのは、歩く人の現役なんです。もっと言うと、私たちは今、「生きること」の現役なんだよね。現役が終わるとあの世に行くわけで。だから、やっぱりそこで心を楽しませなくちゃいけないはずなんです。みんな生きている者同士の現役が集まっているわけだから、生きてる、というのはみんな共有しているのだから、もっと楽しくやろうよ、みたいなのがある。

山田 「生きてる現役」って、いい言葉ですね。特別なことをしないでも、生きているだけで価値があるという気分になります。そういう日常生活で情味を見つけるのが毎日の道しるべで、その先に大きな目的を見据えるということが、最初に言われた目に見えるものと見えない大きなものの二つということですよね。

村里 そうですね。その大目標と日々積み重ねていく目印という二つの道しるべを掲げることができれば、最強ですね。

山田 それがピッタリ重なったときに、人生怖いものなし。それは正に心の平安につながりますね。

村里 これはもう間違いないなと思った。それを日常の中で、どうやってやればいいか。天風先生のおっしゃる大欲というか、大望というのか、それをどこに置くか。それを日常生活の中でどういうものに自分で置き換えていけばいいのか、ですよね。誰かの役に立っていることが心の平安、安心とつながることも多いんじゃないかな。まさに「世のため、人のため」ということだけど。その辺が目的と合っていると、人生は鬼に金棒だね。

山田 人生は旅である、というところから始まりましたが、歩く旅と日常生活の旅の両方を体験されて、人生の旅をどう捉えられましたか。

村里 生命はベクトルなんですね。 ひたすら生きよう、生きようとする方向性。北海道の裏道を歩いていた時、七、八匹の毛虫が道路を横断していて、そばには車に轢かれた死骸がいっぱいあるんです。私にはこの毛虫が何のために道路を渡ろうとしているのかわからなかった。やっと道路を渡り切って毛虫が草むらの中に這っていったとき、ハッと気が付いたんです。毛虫はただ生きよう生きようとしているんだと。あの山の向こうに何かがあるから這っているのではない。生きているから這って行くのだ。私たち人間も、あの山の向こうにある幸せを求めて生きているのではない。本当は今ここにある幸せを噛みしめながら生きているんじゃないんだろうかと。
日本縦断という大きな目標に向かって、毎日歩いている、歩かせてもらっていることこそが最高の幸せなので、「本当の幸いは求めて行く過程の中にある」ということをつくづく思いましたね。
天風先生がおっしゃる世のため人のため、自分に何ができるか命がけで探していく、大きな目的を問いかけていく毎日の中に、答えが存在しているんだと思う。だからこの天風哲学を通して真理を求め続ければいい。天風哲学を通して、真人生を探究し続けようとする過程の中にこそ、本ものの答えがあるに違いないと確信したことが、歩いたことの証かな。

山田 なるほど。今日は楽しく身になるお話の中に、たくさんの気づきをいただき、有難うございました。

●●プロフィール●●
村里泰由
住宅会社会長、NPO法人西川・森の市場副代表理事、天風会理事・講師

(『志るべ』2018年7月号より)

関連リンク:心身統一法でつかむ3つの幸せ『心の平安と安心』