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四代目三遊亭圓歌師匠は、約三十年ほど前に天風先生の直弟子である佐々木将人氏と出会い、天風哲学を学ぶようになって人生観が大きく変わったとおっしゃいます。
今年めでたく圓歌の名跡を襲名され、天風会創立百周年に当たって、新作落語『中村天風伝』をまとめられ、財団の記念祝賀会でご披露頂くことになっています。
今回は、先代師匠とのやり取りなど、興味深いお話が伺える楽しい対談になりました。

◆ゲスト 三遊亭圓歌氏(落語家)

◆インタビュアー 村里泰由(中村天風財団理事)

 

(左:村里泰由氏、右:三遊亭圓歌氏)

 

村里 まずは改めまして、四代目の三遊亭圓歌師匠、ご襲名おめでとうございます。

圓歌 ありがとうございます。

村里 本年三月二十一日から襲名披露の興行ということで、上野鈴本に始まって本当に大変な毎日だったと思いますが、先代の三回忌の前に襲名というのは異例なんだそうですね。

圓歌 そうなんですよ。今年中に三回忌は済むんですけど、来年襲名となると日本中オリンピックで盛り上がっているんで、あまり目立たない(笑)。今年は新しい年号になるんで、それに合わせて新しい圓歌の誕生で行きましょうということで、協会の幹部の方々が五十日間の襲名披露公演を組んで、全員それで行きましょうと言ってくれて、やらせてもらったんです。

村里 先代の圓歌師匠が八十歳を過ぎて「もう歌之介に圓歌を譲る」と皆さんの前で公言なさっていたみたいですね。

圓歌 そうなんです。一門が集まると必ず師匠が、「四代目は歌之介、おまえが継ぐんだ」と。「そんなことをおっしゃらずに、師匠、長生きされてください」。「長生きしたいんだけれどな、八十になるとな、いつぽっくり逝くかわからないから、みんなの前で言っておくから。みんな、四代目を歌之介が継ぐんで、一致団結して盛り上げてくれ」と。一門まとまりがいいんで、反対もなく、先輩の兄弟子たちもみんな。

村里 すんなりと。

圓歌 フォローに回ってくれました。おまえが好きなようにやれと。襲名披露パーティも、先代が派手な師匠だったんで、もう派手にやらせてもらいました。

村里 このようなお忙しいときに、私どもの中村天風財団百周年の色々な企画や講演会などにお出ましくださいますことを、心から感謝申し上げます。

圓歌 いえ、こちらのほうこそ。

村里 まず十一月十六日に神戸で「笑いと人生」というテーマで不肖私、村里が一緒にお話をさせていただき、翌日十七日には信州に飛んでいただきまして今度は松本光正講師とのジョイント。松本講師はお医者様で、天風会の中で一番笑いをとっていらっしゃる方です(笑)。

圓歌 そうなんですか。

村里 それからまた、十一月三十日に上野の精養軒で、正式な財団全体として百周年記念祝賀会があり、そこでお話しいただくということになりますが、いずれも師匠の演目は「中村天風伝」ということですね?

圓歌 はい。

 

中村天風師との出会い

 

村里 中村天風と師匠との結びつきは、佐々木将人先生(註・合気道家、山蔭神道上福岡斎宮宮司。天風先生の最後のかばん持ちと言われた)と伺いましたが。

圓歌 そうです。真打ちになって二年目でしたか、三十一歳ぐらいのときに何か本を出版しようと、笑いに関する本とか、いろんなためになる本を読んでいたときに、将人先生の『人生山河ここにあり』という分厚い本を、福岡の笑顔共和国の大統領をやっていらっしゃる福田純子さんから勧められて読み始めたら、「だめだ、俺なんか。本当にこういうやつ出さなきゃだめなんだ」と書く気がなくなって、本に夢中になってしまったんです。それで将人先生について、中村天風哲学を学び始めたんです。

村里 三十歳のころですか。じゃ、随分長いんですね。

圓歌 将人先生はユニークな先生でしたからね。「わしの顔を見て何か気づけ」と言うから、「先生の顔ですか。沖縄の玄関に飾ってあるシーサーにそっくりです」「面と向かって言われたのは初めてだ。ほかはどうじゃ」と言われて、「どうじゃと言われても・・・」「実は左目はほとんど視力がない」。

村里 そうだ、あの先生は目を怪我されたんでした。

圓歌 それで「どうされたんですか」と聞いたら、「若かりし頃に釘を打ち損じて、はね返ってきた釘が左目を直撃した。それからほとんど視力はない。でもな、人生は不思議なんじゃ。左目が見えなくなってから女房にほれた。一目ぼれ」(笑)。強烈でね、それが最初に会ったとき。「世帯を持ったらな、仲人の依頼が殺到したんじゃ。片目(固め)の盃だ」(笑)。

村里 そうそう、それよくやっていました。

圓歌 先生は「合気道は植芝盛平公、人生の生き方は中村天風先生に教わったんじゃ。なかなかおらんぞ、植芝盛平公と中村天風先生を人生の師に仰いでいるのは」なんて言って。それから、天風先生の分厚い本を天風会館に買いに来たんですよ。

村里 『成功の実現』ですね。

圓歌 毎日のようにかばんの中に入れて、結構重たいんですけれど、しょっちゅう読み直していましたよ。

村里 天風哲学を学んでから人生観が変わりましたとおっしゃっていますが、どんなところに魅力を感じられたのですか。

圓歌 一番僕が目が覚めた教えというのは、実は僕は寂しがり屋でね。しょっちゅう笑いがないと嫌なんで、小学校のときからクラスメイトを笑わせていた。何でこんなに寂しがり屋なんだろうと、ずっと思っていたんです。そうしたら天風先生の本に、この世の中に孤独なやつはおらんのだと。

村里 はい、「不孤」孤にあらずですね。

圓歌「生きているということは大宇宙とともに生かされているということである」一人ではないんだという、あれにびっくりして。
そうか、一人じゃないんだと。そして積極的な心が人 生をつくっていくという、あの考え方ですよね。

 

天風哲学と先代圓歌師匠の教え

 

村里 師匠のラジオ番組のトークを聞いていて、先代の圓歌師匠の話と天風哲学と何か共通点があるように思って、そんな切り口で質問をしたいんですが。先代が「いいネタは腐らない」とおっしゃったと。

圓歌 そうそう、私が酔っ払った勢いで師匠に、「いつもいつも同じ話をして、飽きませんか」と言ったら、にっこり笑いましてね、「飽きるようじゃあ、だめなんだ。飽きないようにやらなきゃだめなんだ」とおっしゃった。なるほどと思いました。言われてみたら、呼吸だってね、一日二万回近くやっているんですけれども、飽きませんものね。飽きたらもう死んでいます。

村里 お話しする側が飽きていたら、聞く側もきっとそうですよね。天風会の第四代会長で杉山彦一先生という方がいらっしゃって、こうおっしゃっているんですよ。「真実という泉に根が届いている植物は、どんな日照りでも枯れることはないんだよ」。本物に根が届いていれば何があっても腐らないと、いいネタは腐らないというのと、私、同じ取り方をしてもいいんじゃないかと思うんです。技術ではないんです。師匠がラジオで、先代は一回も笑いが逸れたことがないとおっしゃったのは、もう何を言っても真実の根に届いているからで、それってすごいなと思いました。

圓歌 本当にすごい師匠でした。最期のときに病室に一門が皆入って、私はもう冷たくなっている師匠の手を握らせてもらって、「師匠みんな来ていますよ。間もなく弟弟子の多歌介も駆けつけます。多歌介が師匠の得意だった『浪曲社長』をやると言っていますよ」と師匠の耳元で言ったら、心拍数がストンと下がった。「冗談ですよ」と言ったらスーッと上がっていった(笑)。一門みんな笑っているんです。泣きながら笑ったのは初めてです。あんなに泣いていても笑えるんですね、芸がおもしろいと。それから三分もしないうちに旅立っていきましたけれど。最後は言葉を出さなくても、心拍数で笑わせましたね。

村里 すごいですね。もう一つ、「捨て目捨て耳をするな」と言われてますね。

圓歌 ぼーっと見るな、ぼーっと聞くなと。

村里 天風先生がおっしゃる意識明瞭ですね。

圓歌「物があるから見ているんじゃない、見るから物が見えてくる」。天風先生が言われたその世界ですよね。よーく聞いて、よーく見ていると、どこにでもネタは落ちている。

村里 天風先生ご自身も落語をすごくお好きでいらっしゃって、お話の仕方も落語家の方から勉強されたっておっしゃっていますものね。

圓歌 天風先生は先代の桂三木助師匠をひいきにしていらっしゃった。私が息子の三木助兄さんに、「兄さん、手ぬぐいの書は天風先生だよね?」と言ったら「うん?何で知っているんだよ。そう、父は天風先生に書いてもらったんだ」。「兄さん、お願いがある。おうちをよく調べて、天風先生の書があると思う。何かあったら俺は百万でも二百万でも出して買いたい」と言ったら、「言ったな、おまえ、百万二百万と言ったな、よし、探す」と、探したけれどなかったと言うんです。それでこれはもうないなと諦めているときに、岡山の講演会が終わって、懇親会の同じテーブルに座ったご夫婦から、「我が家に天風先生の書が三十六枚あります」とお聞きしてびっくり。「祖父が天風先生の支援者だったようで、岡山で講演が終わると、倉敷の祖父のおうちに天風先生はお泊まりになって、お礼としていつも書を五~六枚書いて東京に帰られたんです」と。「もしよろしければ天風先生の書を二枚ほど差し上げます」「いやいや、買わせてください」「いや、天風先生を尊敬していらっしゃる方に大事に飾ってもらいたいんです」と、二枚送ってくださったんです。うれしかったですよ。

 

(天風ギャラリーにて)

 

入門話

 

村里 入門のときに先代の和子夫人が師匠を推薦してくれたというお話が。

圓歌 そうなんです。おかみさんがすごく気に入ってくれて、「師匠、いい子だから採りましょうよ」と。そのとき和子夫人はもう胃がんの末期で、うちの師匠もそれは知っていたんですけれども、お弟子さんにも誰にも言っていなくて、「こんなに喜んだ和子を久しぶりに見たんで、おまえには悪いけれども、かみさんのなぐさめになるんだったらと思って採ったんだよ、俺は」と、入門して二年ぐらいのときに言われました。でも、三年三カ月で和子夫人は亡くなってしまいましたけれど。

村里 そうだったんですか。

圓歌 師匠は子供がいなかったんですけれども、おかみさんは一度流産していて、「あのとき男の子が生まれていたらちょうどおまえと同じぐらいだった」と。

村里 面影がどこかあったのかもしれませんね。

圓歌 すごくかわいがってもらいました。何でも相談できたおかみさんでした。

村里 入門のきっかけは何だったんですか。私は師匠の新作落語の『母ちゃんのアンカ』にでてくるお母さまのお話が大好きなんですけれど、お母さまが鹿児島から大阪に仕事に出て行かれて、なかなか会えない。

圓歌 僕が小学校一年のときに両親が離婚して、母は兄と姉と私の三人をおばあちゃんに預けてね。

村里 その辺の苦労話を、最後は笑いに持っていかれるわけですけれど。

圓歌 ただ兄も高校卒業して大阪に就職して、姉は中学校卒業して大阪の美容師の専門学校に行って、おばあちゃんと私が一年間二人きりになったんですが、中一のときに反抗期で手に負えなくなって、おばあちゃんがもう大阪の母のところへ行けと。それで結局大阪に出てきたんです。大阪でテレビに桂枝雀師匠が出始めたころで、何とおもしろいんだろうと。

村里 それがきっかけですか。

圓歌 ひっくり返って笑っていました。それで高校になって鶴瓶師匠の深夜ラジオに夢中になって、落語って何かおもしろそうな職業だなという思いはありましたね。でも大阪に行ったけれど反抗期は続いていましたんで、僕はおふくろと筆談でした。一切しゃべらないです。「風呂に行くお金をくれ」とこうやって。

村里 何か特別な心の葛藤があったんですか。

圓歌 二年に一度ぐらいしかおふくろと会えなかったんで、複雑な反抗期の気分があって。

村里 本当は甘えたいのにいてくれなかった・・・。

圓歌 よく泣かれました。「しゃべればいいじゃないか、目の前に母ちゃんがいるのに」って。「しゃべりたくない」。高校卒業するまではそんな感じだったんです、ほとんど筆談で。だから物を書くのが好きになったんですよ。一人で詩を書いたり、毎晩日記書いたり、それで自分で新作落語を書くようにもなったわけで。
そのころ『週刊平凡』にうちの師匠が対談で出ていて、この人は圓歌になってからお弟子さんをとっていないと。ということは、逆にチャンスと思ったんです。歌奴時代のお弟子さんと、圓歌になってからのお弟子さんとの間が、十年ぐらいあいているんですよ。

村里 落語家になりたいという思いはあったわけですか。

圓歌 正直言いますと、チャップリンが好きだったんです。チャップリンは自分で脚本を書いて、主演もやって、監督までやりましたよね。すごいなと思って。一応演劇の劇団に申し込んでいたんですよ。そうしたら、高校の卒業式の夜にテニス部の顧問の先生が、教え子さんが餃子屋さんをやっていたんで、おいしい餃子を食べに行こうとみんなを連れていってくださって、その餃子屋の二階で、「おい、来い」と呼ばれて、「今日お母さんが泣きながら体育教官室に来たぞ。うちの子は何聞いてもしゃべってくれない。大学も受けていないし、就職試験も受けていないので、先生の言うことは何でも聞く子なんで、先生から聞いてくださいって。おまえ、一週間以内に進路を決めろ」と言われた。「一週間以内?」「一週間以内に決まらんときは、この餃子屋が繁盛しているんで、ここの店員になれ」と言うので、餃子屋の店員は勘弁してもらいたいと、急遽東京の圓歌師匠のところに行ったんです。

村里 それが決断の一つの動機になったんですか。

圓歌 多分『週刊平凡』を買っていなかったら、師匠のことを知らなかった。いいかげんな弟子ですよね、師匠の落語を一回も聞かないで、住所だけ覚えて行ったんだから。

村里 おもしろいのは『週刊平凡』で圓歌師匠の名前を知ったけど、有名な歌奴という前名を知らなかった。

圓歌 知らなかったんです。うちの師匠が唖然としていました。もう、ちょっと弱ったな、みたいな顔で、「おい、和子、歌奴知らないやつ来たけれど、どうする?」みたいな。よっぽど自信があったんでしょうな、歌奴で売れまくったから。でも昭和四十五年に圓歌を襲名していましたからね、私が入門したのは昭和五十三年なので、圓歌を襲名して八年たっていました。

村里 歌奴での人気はすごかったですよね。

圓歌 「水道の水と歌奴、三平は、ひねればすぐ出る」と言われて、どこにでも出ていたみたいですね。「山のアナアナ」って、一日十八回。

村里 山のアナアナ、はリアルに覚えています。

 

進撃の十八人抜き

 

村里 四代目師匠は昭和三十四年、鹿児島のお生まれで、昭和五十三年に入門されたということですから、もう四十年ちょっとたっていらっしゃるんですね。

圓歌 そうですね、四十二年。

村里 やはり最初は苦労されたようですね。「さよなら善兵衛荘落語会」のエピソード、このとき一番お金がないときですか。

圓歌 二十四歳。二つ目になって二年目ぐらいのときに、「善兵衛荘」に住んでいたんですが、木造の四畳半一間で十部屋あったんですけれども、一階は二部屋しか住んでいない。その一万一千円の家賃を九カ月滞納しまして、二、三カ月は大家さん何も言わなかったです。女性のご高齢の方だったんですけれど、四、五カ月したら毎日ドアをトントン、「払ってください」。「ちょっと今ないんで」と言うと、「どなたのお弟子さんなんですか」と言うから「円楽です」(笑)。うそばっかり言った。そうしたら、最後はもう「訴えますよ」みたいなことになったんで、訴えられたら困るし、うちの師匠にばれたら もっと困る。で夜中お手洗いへ行ったときに、木造の廊下がちょっと広いのに気がついて、ここにお客さん入れて落語会やればどれぐらい入れるだろうと思って、部屋から座布団を出して並べたら五人は座れると。

村里 横に?

圓歌 はい。縦にギュウギュウだと百人近く座れるんで、会費一人千円でとんとんになると思って、ここで落語やろうと。そうしたら「善兵衛荘の廊下で落語会なんて、企画がおもしろい」っていうんで、円丈師匠とか柳家小ゑんさんとか、新作落語のメンバーが、「俺、出たい、出させてくれ」、「家賃滞納してるんで、出演料なんか出ません」、私の部屋を見て、「取れないよ、こんなところに住んでいる君から」と言われて。で、立ち見を入れて百四十人ぐらい入ったんです。

村里 すごいですね。

圓歌 それで「大家さんには六万円だけ払って、残りの分で師匠方と一緒にスッポン鍋で打ち上げをやらせてもらいました。それからは少々滞納しても、大家さんも何も言わなくなりました。それからまだ二年半ぐらい住んでいたんです。

村里 でもだんだん新作落語で頭角を現してこられて、お聞きしたところでは、先輩十八人抜きで真打ちになられたり、あと鹿児島弁の落語で桃太郎、これは五十万本、今はCDだから五十万枚と言うんでしょうか、大ヒットして。

圓歌 三十八歳の年で、レコード店からも「品切れになりますから早く送ってください」と言われました。

村里 忙しくなって歩けなくなったというのはこのころ?

圓歌 はい。肺に水がたまって、胸水と言うんですか。

村里 やっぱり疲れですか、それは。

圓歌 動くと痛い。病院でレントゲンを撮ったら、左肺に水がたまっているのが分かった。帰ってうちの師匠に、「師匠、肺に水がたまっています」と言ったら、「逆立ちしろ、出るかもしれない」(笑)。笑わせられて横隔膜が動くと痛い。何が逆立ちしろですか。水全部出終わるまで半年ぐらいかかりましたよ。抗生物質の薬で炎症を抑えて、一週間ぐらいで九割方出たんです。それで「薬はもう回避します」と医者に言ったら、「いや、まだ全部出終わっていない、残っていますよ」と。「抗生物質は他の細胞をやっつけるときがありますから、あとは自然治癒力で頑張ります」と言ったら、「あんた頑固だね」と言われましたよ。
それから、天風先生式に素足で大地に立って、頭から眉間のところで合わせて活力を吸収する方法で。

村里 プラナヤマ法ですね、活力吸収法。活力は眉間から脳に入り、自律神経系を伝わって体の隅々まで配られて体は生きているというのが、天風先生の概念です。

圓歌 ええ。あの呼吸法をしょっちゅう、時間があると素足で土の上に立ってやっていました。肺呼吸ができないんで、佐々木将人先生に言われて、皮膚呼吸をさせなきゃいけないと、冬場だったんですけれども、ランニングとワイシャツだけで過ごしました。どんな寒いときでも、山形へ行ったときも、迎えに来た人に空港でコートを飛行機に忘れたと思われました。「いや、これで来ました」「えー!二枚ですか」「はい」。

村里 山形でコートなしじゃあ驚かれるでしょうね。

圓歌 時間があったんで、講演前に近くの病院にレントゲンを撮りに行って、「肺の水はどうですかね?」と訊いたら、「たまっていませんよ、出終わったんじゃないですか」。落語会が終わってその夜打ち上げへ行って風邪を引きました(笑)。気が抜けたんですね。それまで一切風邪引かなかった。水が抜け終わったんだ、よかったなと思ったら、風邪引いた。気というのは不思議ですよね。

 

守るべきものと変えていいもの

 

村里 これは私が師匠にお会いする前の話ですが、読売新聞に「編集手帳」というコラム欄があって、そこに師匠の落語の話が出ていたんです。

圓歌 あ、そうなんですか。

村里 そのコラムは、「これから出かける銭形の平次親分に、女房のお静が大切な商売道具を持ったかと訊ねた。『ジュテモタ?』『マダモタン』。声に出してみると、まるでパリの街角で交わされたせりふのように聞こえる。三遊亭歌之介(四代目圓歌)さんの高座で聞いた落語の一説である。探してみれば外国語のような響きを持つ言葉はほかにも見つかる」というような内容だったんですが、このジュテモタ? を実は私、講習会の話の枕にずっと使わせていただいていたんです。それで私、天風会の中ではちょっと笑いがとれるんです。

圓歌 そうですか(笑)。

村里 この後で、歌之介さんと天風先生がつながっているというのがわかったんです。「人との出会いが全部私をつくってくれました。私を変えたのは佐々木将人先生です」というお話を聞いて、あーっと思って。今そのご縁を皆さんにお伝えしているんです。

圓歌 ありがとうございます。

村里 師匠は前座のときからいろんな勉強をなさって、まさにごぼう抜きで真打ちになられて、前の歌之介師匠の一つのパターンをおつくりになった。先代圓歌師匠は笑いの波がドカーンと来る。十秒に三回ぐらい来る。

圓歌 ですよね。前から後ろに行く笑いじゃなくて、後ろの客席からブワーッと前のほうに来るようなお笑い。

村里 ドカーンというのは当代の圓歌師匠にも、ずっと引き継がれるものなのかなと思っているんです。あともう一つ、師匠も古典はおできになるけれど、お客さんが新作を求めているじゃないですか。もちろん古典も大事だと思いますが。

圓歌 そうですね、最初は古典落語からけいこをつけてもらってます。それがないとなかなか新作ってできないと思います。

村里 守っていかなくてはいけないものと変えていいものと、自分流にどういうふうにかみ砕いていくかということはあるんでしょうね。でも、やっぱり師匠の新作を皆さんが待っていらっしゃると思うので期待してしまいます。どうかこれからも、ドカーンと笑いを振りまいてください。

圓歌 ありがとうございます。

村里 長時間お話をいろいろとありがとうございました。

 

●●プロフィール●●
三遊亭圓歌氏
落語家。三遊亭圓歌四代目。本名、野間賢。昭和三十四年四月八日生。落語協会所属。故郷の鹿児島弁の落語で注目を集める。一九八五年に若手演芸大賞最優秀二つ目賞、並びにNHK新人落語コンクール入賞。一九八七年五月、落語協会の真打昇進試験を受験して自作の新作落語『寿の春』で合格。同年十月、十八人抜きの大抜擢を受けて『三遊亭歌之介』の名で真打昇進。二〇一九年三月二十一日、鈴本演芸場での襲名披露に於いて三遊亭圓歌を四代目として襲名した

(『志るべ』2019年10月)

 

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三遊亭圓歌師匠をお迎えした創立100周年記念イベントを各地で予定しております。新作落語『中村天風伝』は当財団のイベントでしか聞けない落語です。

詳細はこちらをご覧ください。

11月16日(土)神戸

11月17日(日)長野

11月30日(土)東京