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試練というものは、いつどこでやってくるのかわかりませんね。大手自動車メーカーのエンジニアとして順風満帆だった私は、四十代半ば、突然、仕事上で大きな問題に直面しました。その上、米国で自由な教育を受け、日本になじめなかった息子の素行不良、高校退学という深刻な衝撃もやってきました。今振り返ると、私の人生も波瀾万丈、決して安泰なものではありませんでした。けれども、天風先生のお教えを必死に実践したおかげで、私と家族は、大きな危機を乗り越えることができました。

天風哲学に出会うまで

大学卒業後、大手自動車メーカーに就職した私は、高度成長時代、ぐんぐん業績をのばし、海外進出を果たしていた会社の要請で、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中近東からアメリカまで、海外技術協力を担当するエンジニアとして世界各国に出張していました。そんな中で職場結婚したのですが、妻の母である菅原きぬ江は戦前から中村天風先生のお弟子で、妻も生まれた時から天風会に入会していたのです。けれども、仕事、家庭のこと、育児に追われ、夫婦共にいつのまにかお教えから離れて行ってしまいました。

仕事は順調で、現地に駐在して担当したマレーシアのノックダウン工場が完成後、計画以上の生産実績を達成し、私は会社から「有功賞」という賞をいただき、順調に課長に昇進しました。その後、会社がアメリカに生産工場を作ることになりました。私は工場用地を探すチームの一員となり、1年半、米国全土を飛び回り、日本にはめったに帰れませんでした。色々検討を重ね、工場の建設地が決まり、私は第一期の日本からの駐在員として幼い子供2人と妻と共にアメリカに赴任、今度は工場の立ち上がりに努力しました。ここまでは、私の人生は順風満帆でした。

3年間のアメリカ生活を終えて帰国後、私は主要工場の製造部門の管理責任者となり、工場長から生産システムの改革を命じられ、その仕事に携わっておりました。その工場長は、私が赴任してわずか2か月後、急な人事異動で関係会社に移り、新任の工場長がやってきました。彼は私が前任者から引き継いで進めていたシステム改革プロジェクトを中止し、全く新しい改善計画を作ることを主張しました。それまでの努力が全部無に帰してしまうため、現場の人々はこの上からの押し付けに強く反対し、私も現場の仲間の立場に立ち、上を説得しようとしました。しかし、多くの管理職は保身のため工場長の意向に賛成したため、異分子として孤立した私は、今でいうパワハラにも遭うようになりました。その頃、会社は販売規模に比べ、明らかに過剰な人員を抱えて苦戦していました。私には、初めての海外進出を計画していた関連会社の部品メーカーからのオファーが来ました。考えた末、私はそちらの会社に移りました。

晴天の霹靂

新しい会社、新しい環境で、不慣れなこともありましたが、社長に同行し、アメリカ・メキシコを何度も訪れるようになっていたころ、わが家に晴天の霹靂ともいうべき事がおこりました。

のびやかなアメリカの学校生活を経験した後で、厳しい日本の学校に入った長男がぐれてしまい、暴走族に入ってしまったのです。そのころの暴走族はやくざと紙一重でした。息子は高校への通学路の途中の駅にあるゲームセンターにいるところを暴走族の少年に拾われ、非行少年のたまり場になっていた彼の家でしばらく暮らすようになり、自分の家にはなかなか帰らなくなりました。頭にはパンチパーマをかけ、派手な服を着るようになりました。高校は中退し、口にするのは人生をのろい、人を呪詛する言葉だけでした。アルバイトをしても続かず、喧嘩をしては血だらけになって帰ってきました。妻はすっかり痩せてしまい、毎日泣いてばかりいました。

天風教義の実践

そんな時、義母、菅原きぬ江に勧められ、当時の天風会四代目会長、杉山先生のところに伺いました。先生は、あるがままの息子を受容すること、愛することを教えてくださいました。「食事に行ったら、お金を渡して、支払ってきなさい、おつりは上げる、と言いなさい。褒めるところがあったら、少しでも褒めてあげなさい」とおっしゃいました。先生は、そうすることで、息子に感謝の念を持たせることを教え、私たちが子供を持ったことに感謝することも教えてくださったのでしょう。

杉山先生のお話を聞くことで、私は、お会いしたことはありませんが、今は亡き天風先生のお話を聞くのと同じような感激を味わうことができたと思っております。私は会社には黒表紙の誦句集を必ず持って行き、トイレの中で声を出して読んでいたところを会長に聞かれ、「君は何か宗教をやっているのかい?」と聞かれたこともありました。「成功の実現」は繰り返し、繰り返し読みました。夏は多武峰の修練会、東京の修練会、(当時やっていた)いわきの修練会、名古屋の修練会へと、片っ端から行き、一から修行しました。そんな中で、いい友人にも出会うことができました。

天風哲学を実践することにより、子供なんか、いない方がよかった、この子が警察の厄介になったら一家崩壊だ、というマイナス思考から、子供の存在に感謝する、プラス思考に少しずつ転換することができたのです。私は息子の顔を見たら、にっこり笑うように努めました。「成功の実現」の中に、天風先生のこんなお言葉があります。「だいいち憎むという気持ちは悪魔の気持ちだもの。自分がもしも人に憎まれたらどんな気持ちになるか考えてごらんよ。人にあなた方は憎まれるのが好きか、愛されるのが好きか。村八分にされるのが好きな奴はいないだろう」息子もまた、私たちが彼を憎んでいない、愛しているんだ、ということを知り、心の奥では嬉しかったのだろうと思います。天風先生のお教えに従って私たちの気持ちが変わると、笑いのなかった家、涙、涙ばかりの家に、少しずつ笑いが戻り、少しずつ、息子と心を通わすことができるようになっていきました。楽しいこと、嬉しいことも、見出すことができるようになりました。

様々な経緯がありましたが、高校を中退してから3年後、息子は家族と一緒にアメリカに行き、大学受験資格(GED)を取って州立大学に入学することができました。しかし、しばらくするうちに、日本料理の板前として生きる道を選び、現在、アメリカで日本料理店のオーナーシェフとして元気に働いております。週末にはお店の前に順番待ちの行列ができることもあるそうで、まずまずうまくいっているようです。家庭では一児のパパとなり、娘にメロメロで、昔の怖かった面影などどこにもありません。忙しい仕事の中でも笑いの種を探すことを忘れず、話し上手で、会うときはいつも大爆笑してしまいます。

第三の職場

私は移籍先の会社が米国で設立した社員900人の合弁会社の社長として、米国では二度目になる駐在員生活を6年間送り、六十歳で退社しました。

その後、自動車工業会と経済産業省が主管する、”現地メーカーの支援計画“に携わる“政府専門家”として、フィリピン、インドネシア、マレーシアで約10年間仕事をしました。中でも、マレーシアには7年以上滞在しました。若いころにも数年間滞在して仕事をし、第二のふるさととも思っていたマレーシアは、しかし、日本流の効率的な生産方式を浸透させるには手ごわい国でした。

天風哲学と共に海外生活を楽しむ

一番心に残っているのは「キラキラバグース」です。「まあ、いいじゃないか」みたいな言葉です。会議を朝招集しても、来ているのは日本政府から派遣されている日本人だけ。現地の社員は誰もいません。
「キラキラバグース」
年に一回のラマダンと言う断食月は太陽の出ている間は水も飲めないし、何も食べられない。当然生産性は落ちます。これも「キラキラバグース」ラマダンの後は「ハリラヤ」という感謝のお祭を国を挙げて祝い、日本のお盆のように、みんなが田舎に帰るのですが、ハリラヤの数日前から工場はがらがら、というありさま。これも「キラキラバグース」
なにごともきちんとやり遂げ、整然としている日本社会とくらべ、万事ゆるく、のんびりしています。一方では、マレーシア人は情に厚く、困っている人をみんなで助けるので、物乞いは一人もいないそうです。
仲間の日本人の技術者の中には、一つ一つのことに本気で腹を立て、現地の会社とうまくいかなくなって当初の予定よりも短期の滞在で帰国していった人もありました。

私も、腹を立てたくなったことは何度もありますが、そのたびに天風先生のお言葉にある、「真・善・美」を心に浮かべ、「ここが我慢」と自分に言い聞かせました。真は「誠」、善は「愛情」、美は「調和」、すなわち造物主の心です。この心で生きて行けば、怖いものはありません。

長い海外生活を振り返ると、ただ淡々と自分にできること、すなわち「ものづくりの技術」を伝えてきただけのような気がしますが、すべての任務を終えて帰国する時、コンサルティングをしたたくさんの会社から、過分な感謝の言葉をいただき、とても嬉しい気持ちになりました。

これからも、天風先生のお言葉、「矢でも鉄砲でももってこい。苦しいこと、つらいこと、束になってこい。そんなものに負ける俺じゃない」を胸に刻み、少しでも人の世のために役立つことを実行しながら、元気で生きていきたいと思っています。

遠藤 喜久男 | 技術コンサルタント