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今回の特別対談は、修猷館高校の先輩である中村天風先生の武勇伝を講談に創作された神田紅さんに、堀田亜希子講師がお話を伺いました。厳しい芸能界での体験から、紅さんが己を知って自分を生かすことの大事さに気付き、自分を貫かれた努力には感銘を受けます。

◆ゲスト 神田紅氏(講談師)

◆インタビュアー 堀田亜希子氏(中村天風財団講師)

 

(左:堀田氏、右:神田氏)

堀田 紅さんは初めての女流講談師ということで入門されたのですか?

神田 初ではなく昭和五十四年に二代目神田山陽師匠のところに入門したのですが、このとき先輩女流が三人いらっしゃいました。

堀田 そうでしたか。でも紅さんはオリジナル講談をたくさん作っていらっしゃるんですよね。その中で何と言っても興味のあるのが『中村天風伝』ですが。

神田 はい、「『運命を拓く』中村天風」です。麹町の東條会館で平成九年三月に初演をさせていただきました。

堀田 きっかけは何だったんですか?

神田 私が前座か二つ目の頃、ラジオの短波放送で、『ウェルエイジングアワー』という番組をやっていたんです。そこに天風先生のことを書かれた作家の松本幸夫さんがゲストで来られて、そのときに中村天風さんはあなたの学校の先輩ですよって言われて。

堀田 修猷館高校のですね。当時は中学修猷館。

神田 はい。実は天風先生の最後のかばん持ちと言われた佐々木将人先生と飲み仲間で、天風先生のお話はよく伺っていたんです。それで松本さんを短波放送のゲストにお呼びしたら「天風物語を紅さんがやらないで誰がやるの?」と言われて、それがきっかけでした。

堀田 なぜ、『中村天風伝』を選ばれたんですか。

神田 それはもう天風先生が好きだから、是非みんなに教えたいと思って。私のイメージの中で、うちの師匠と中村天風さんがダブるんです。もちろん、天風先生は哲学者だし、個人的に存じ上げてないから細かいところはよくわかりませんが、私の師匠も九十一歳で亡くなるまで、とても前向きで楽しい人だったんです。

堀田 どんな方だったんでしょう。

神田 例えば歳をとっても荷物は自分で持って、私が「持ちます」と言っても「大丈夫だよ」と、ニッて笑ってたのしそうに駅の階段を上がるんですよ。

堀田 「階段か、わあ、嫌だな」と思うのではなくて。

神田 ええ、七十代でも、大久保駅なんか古い駅なので階段が低かったから、もう二段跳びで、タッ、タッ、タッっと、そうやって、自分に負荷をかける。

堀田 すごいですね。それは、かないませんね。

神田 すごいなと思ったのは、死に対する考え方です。師匠が八十代のときに入退院を繰り返してたんですが、そのときに私のラジオの番組にゲストで出てもらったんです。それで「弟子の私しか聞けない質問なんですが、師匠、死ぬっていうことに、どういうイメージをお持ちですか」って聞いたんです。そうしたら、いつもニコニコ笑ってる師匠が、その時だけは嫌な顔をしたんですよ。

堀田 さすがに?

神田 その質問に対して、「君、嫌なことを聞くね。僕はね、死ぬなんていうことは考えたことがないんだよ。その答えは死んでからでいいかい?」って。うおーと思った。死んでからでいいかい?って。はい、結構です(笑)。要は考えてない。

堀田 今、生きることしか考えていないんですね。天風先生もやはり、「死んだらどうしようと心配する人がいるが、そんなことは死んでからゆっくり考えればいいんだ、生きている間は生きることだけ考えろ」とおっしゃってました。

神田 そうなんです。今生きることしか考えてない。病院に入院なさって、数人部屋にいらっしゃるんだけど、師匠だけがベッドの上で正座して待ってるんです。ほかの人はみんな、もう寝たっきり。でも、うちの師匠はいつも正座して、「いやー、いらっしゃい!」って、笑顔で迎えてくれるんですよ。それで、そこで稽古です。

堀田 病院のベッドで、ですか。

神田 私はその時もう真打ちになっていたからなかったけど、入りたての子は、そこで稽古してもらってました。

堀田 なるほど、まさに積極精神の持ち主ですね。

 

● 存在感のなさが致命的

 

神田 うちの師匠は特に人を褒める。すべてを否定してかからない人なんです。私、女優時代は全部を否定をされていましたから。

堀田 最初、文学座に入られたんでしたね。

神田 七、八倍の競争率で百人研究生が入るんですが、一年間勉強して翌年は十人に落とされちゃう。

堀田 厳しいんですね。

神田 私は最初の百人には選ばれたけれど、その後の十人に入れなかったんです。卒業公演でも主役だったし、こんなに頑張っていたのに落とされた。どうしても納得できなくて、「私のどこがだめだったんでしょう」と担任の先生に聞きに行ったら、五人いる審査の先生のうちの、誰か一人でも反対すると残れないということなんです。ところが強硬に反対した先生は、私のことを出席番号が隣の人と間違えていたんです。その生徒はその先生のレッスンを全休だったそうで。

堀田 それはひどい。

神田 それでその先生が自分のレッスンに全然出てこない人間は許せないと、落としたわけです。えーっ、出ていたのに! と理不尽だと思って、「そういうもんですか」って担任の先生に訴えたら、「おまえな、そもそも他の人と間違えられるようじゃ、だめなんだよ」と言われました。そのとき、私、人生が見えた、と思いました。

堀田 それはどんなふうに?

神田 日常がいかに大事かっていうこと。それまで私は舞台の出来がすべてだと思ってたんです。研究発表会というのが年に何回かあって、その評価は全部いいんですよ。いい役を与えられると、あれは誰だっていわれるくらい注目されて、すごく伸びしろがあるって言われました。だから絶対選ばれると思ってたわけです。ただ、ふだん授業を受けるとき、「私です!」っていうのがあまりになかった。むしろ恥ずかしがりやで、人の後ろで黙って授業を聞いてて、やるときにやればいいんだってずっとそう思ってました。

堀田 引っ込み思案だったんですか。

神田 かっこつけていたんですよね。だけど日常的に存在感というか迫力というか、そういうものがなかった。

堀田 オーラというか。

神田 そうそう。それからいろいろなところで講演をするときに、例えば演劇学校のね、その話をするんです。会場でも一番前に来て、「私はここにいます!」ってアピールするぐらいの人間でなければ、芸能界なんかでやっていけませんよ、ということを言います。

堀田 では、そこから講談の道に?

神田 いえ、そこからプロダクションに入って、ある女優さんの付き人をしながらまだ頑張るわけです。

堀田 さっき女優時代は否定ばかりされていたとおっしゃいましたけど。

神田 そう、もう下手、だめ、いろいろ言われました。器用貧乏だったんです。お稽古事はいっぱいやってました。日本舞踊をやって、お三味線をやって、ジャズダンスをやって、タップダンスもやって、もうジャズダンスなんか週に三日、一日二レッスンも受けて。

堀田 その下積みがあって、紅さんは講談でもいろいろなことができたんですね。

神田 有名な振付師の先生のレッスンに通い始めて、その先生からはいろいろなことを教えてもらいました。私が必死になってレッスンに来てるから、先生が「君はどんな希望があるんだ」と訊くので、「私、実は女優になりたいんです」と言ったら、ある日食事に誘ってくれて、テーブルの上に横線を引いて、「この線の上の方がスター、この線上が普通の役者ね。君はね、自分がどこら辺にいるかわかってるかい?」って訊くから、「まだ、この線よりずっと下ですよね」って言ったら、「そう。この線の上の方にいるスター、これはね、もう生まれたときに決まってるんだよ。君はね、今この役者のギリギリの線よりずーっと下だよ。このまま、君は努力して、ギリギリの線ぐらいまで行くつもり? だけど、ここにはなれないよ」って、スターを指して言われました。

堀田 厳しいですね。

神田 もうガムシャラにやってたときに言われたんですよ。大抵の人はそこでやめるんですよね。でも、私はその時、悔しくてポロポロ泣いたけど、それでもついていったんです。そうしたら、日劇の『私はオンディーヌ』という小柳ルミ子主演の舞台で、私の名前が看板に出たんです。そしたら、その先生から楽屋に百本のバラが届きましてね。電話して、「ありがとうございます」とお礼を言ったら、「君ならやれると思ったよ」って。

堀田 認めてくださったんですね。

神田 要するに、よくそこまで頑張ったねって、褒めてくれたの。人間って、自分を知るというのがまず大事なんです。自分がどんなものか、たいしたことなくてもそれでも努力するのか。私は諦め切れないから、先生が言うように、このギリギリまではやってみようって覚悟した。だから普通の人の努力じゃないんですよ。

堀田 一生懸命努力してるのに、上がれないという人はたくさんいるんでしょうね。

神田 それはいっぱいいます。できればその人たちはもっと己を知ったほうがいい。何とかなるんじゃないか、いつかチャンスが来るんじゃないかってしがみついてると、すごく辛いし悩む。でも己を知ってからする努力は、気持ちが違ってくるんです。

 

● いよいよ講談の世界へ

 

堀田 講談の世界に入ったのは、やっぱりその時に自分を客観的に見極められたのでしょうね。

神田 それはたまたまです。私が付き人をしていた女優さんが、東宝の舞台で演じていた役のせりふを私が全部覚えて、舞台裏で同じように芝居してたんですよ。スタッフさんとか裏方さんたちが面白がって、「鐘子ちゃんの、当時の私の芸名ですが、ミニシアターが始まった」って見に来てくれて。そのスタッフの一人に、「もう主役に何かあったら、いつでも君がそのまま出てやれるね」って言われたんです。「えーっ、何かなければ、私はずっと舞台の袖にいるのか?」って、己をまたそこで知るわけですよね。

堀田 なるほど。

神田 ここにいてはもう、あの舞台上の自分はないんだと。で、もう辞めさせていただきますとなりました。

堀田 でも講談界へというのはどうしてですか。

神田 きっかけは、その頃の舞台の音楽家の人が「原宿でこんな舞台をやるんだけど」と言うので、「だれが台本を書くんですか、音楽はどうするんですか」って聞いたら、「だから、役者はだめなんだ。台本は?音楽は?って。芸人は違うぞ。舞台を与えられたら、なんでもやるんだから」って言うんです。「芸人ってなんですか」って聞いたら、「芸人は芸人だよ。君、講談、知ってる?」って言うので、「知りません」と言ったら、「じゃ、講談の先生を教えてあげるから、そこに行きなさい」って言われて、師匠を紹介されたんです。

堀田 山陽先生ですね。

神田 それで、行ったらもういきなり、「さても源左衛門!パパンパン」とやるわけ。私は一応、楽譜も読めるし、これでも『屋根の上のバイオリン弾き』に出てたし、タップも踏めれば、ジャズダンスもする、日本舞踊もやってた。だから、「さても源左衛門」なんてすぐやれちゃうわけですよ。そしたらもう師匠がびっくりして、ものすごい人が入ってきたと言うわけです。稽古に行くたびに「君は天才だ」って言われるんですよ。

堀田 それまでとは違って、今度は褒められ。

神田 「君みたいな、何でもできる子を見たことがない」とかすごく褒めてくれるので、もう天国みたいでした。

堀田 やっぱりそれだけのものを持っていたから、それが生かされる場所にうまく出合えたんですね。

神田 あがいてやっとたどり着いたんですよね。それで二月に入門して五月にもう「何をやりたいの?」って訊かれたから、「グリム童話の 『ヘンゼルとグレーテル』を、魔法使いのおばあさんがタップを踏みながら出てきて、子どもは物すごい残虐性があって、本当のおばあさんを火の中に突き落とすというブラックユーモアで作りたいっ」て言ったら、師匠が「おもしろいね。それ、やってごらん」って言うんです。

堀田 山陽先生はもうそこで、女流講談師を育てようという夢をもたれたわけなんですね。

神田 そう夢ですね。戦後、講談師が十一人にまで減って、うちの師匠が講談協会の会長の時代もなかなか増えないで、三十人はいなかったと思います。で、そういう廃れかかった業界は、もう今までやったことのないことをしなければいけないと、マルクスの本を読むような師匠なので、革命をおこして何とかするのが、自分の責任だと考えていたのでしょうね。

堀田 その時代に女性を舞台に上げようと思われるのは、確かに革命的ですね。

神田 でも私たちが入ったとき、講談は女が出てきて歌ったり踊ったり、そんな舞台じゃないんだ、もっと神聖な場所なのだから、そういう輩は断固として潰すと言われました。そうしたらうちの師匠が、女流に反対するような人がいたら私が絶対に潰します、と反論して論争になったんです。そのころは周りから、山陽先生、女をはべらせて、鼻の下伸ばしてハーレム状態だね、なんて、ずっとばかにされていました。

堀田 でも、自分は絶対、女流講談師をつくるという考えに、ブレなかったわけでしょう。

神田 一切ブレませんでした。例えば、この講談定席の本牧亭という白木の伝統の舞台にタップ板を持ち込んで、靴で踏むわけですよね。そのことの批判もすごかったんです。山陽先生、何やらせてるんだって。だけど、そういう批判を私の耳に入らないようにして、「結構、結構、素晴らしい、面白い。次は何をやってくれるのかね」って。

堀田 大きく構えた、いい上司ですよね。

神田 でもそのうちに、山陽先生がこのまま会長だったら女流がどんどん出てきてまずいということで、師匠を外そうとする動きが出てきたんです。結局それで講談界が二つに分かれたんですけどね。でも反対側も、今はみんな女の弟子、持っています。

堀田 認めざるを得なくなったんですね。

神田 うちの師匠はとにかく女流を前に出して、話題づくりをしたわけです。それでね、ある時師匠に聞きました。私たちって上野のパンダですよねって。

堀田 人寄せパンダですか。

神田 そしたらその時、師匠がニヤッと笑って「そんなことを聞くのは、君ぐらいだね」って否定なさらなかった。でも私は師匠の大きな気持ちは分かってました。決して講談界をばかにしてるわけでもなく、男性を大事にしてないわけではないけれど、今、誰かがこれをやらないと講談が廃ってしまう。それには自分はどうしていいか分からないから、私がこれはどうでしょうか、あれはいかがでしょうかって言うと、「面白そうだね、やってくれたまえ」。するとお客が来る。私たちは役者出身ですから、自分で切符を売るんですよ。だからいつも満員なんです。そのうち、新聞も書く、テレビも来る。だから、師匠はもう、「女流はすごいよ」とべた褒めでした。

堀田 山陽先生にとっても、ちょうどいい時に紅さんが来てくれたのではないですか。紅さんの努力の賜物でもあり、ここの場で才能も花開いた。

神田 私ね、思うんですよ。続けていけるというのが才能なんだと。継続は力なりって、まさにね、続けていける才能はあったと思います。

堀田 そこには信念があったんですね。

 

● 女性の時代と言われて久しいけれど

 

神田 だけど、講談界でもまだ、女流はなかなか光が当たらないんですよ。日本の社会では女性はまだ認めていただけないという部分、今でもすごくあります。講談師はたくさんいるのに、女の芸人というふうに別ジャンルにされる。女性議員なんかでもそうですよね。

堀田 確かに女性の時代なんて言われていても、女性の大臣というだけで風当たりが強い部分がありますね。

神田 女のほうが大変だとかは言いたくないんだけど。

堀田 現実に今はもう子どもを産んで育てるだけが女性の生き方ではなくなっています。人生は自分が生きているということをどう表現するかだと思います。ただ状況は、妻になったら家庭での立場もあるし、子育てもある。あるいは子供をもつ人生なのか、そうじゃない人生なのか、経済的自立はできるのか、ある意味、男性より複雑な状態だと思います。だからこそ、天風哲学を女性は大いに学ぶ必要があると思いますね。

神田 女の人に余裕がないと、家庭も子ども、夫も良くならないですよね。

堀田 そうです。自分は女だからとか、消極的なことを思うよりも、やることをやって、自然に周りから無視できないと思われるように自分を生かしながら、他の人に間違えられるような存在にはならないで(笑)。

神田 そう(笑)。そこちょっと難しいけど、自己アピールというのがどれだけ人生で大切なものか、二十歳ちょっとで悟りましたからね。

堀田 紅さんは、それこそ、そういうマイナス的なところからも人生をしっかり見て、一つひとつ、気持ちをうまく切り替えられてこられたのがすばらしいです。

神田 自分を見定めるみたいなところが、昔からあったんですね。潔さが好きだったというのもあります。

堀田 求めて、諦めないで、努力をされてきたからこそ、現在のご活躍ぶりがあるのだと。

神田 まだまだ、これからでございますけれども。

堀田 そうですね、これからっていうのが大切ですね。

神田 ずっと一生涯、師匠のように今と明日を見つめて生きようと思っています。

堀田 賛成です。今日はありがとうございました。

神田 ありがとうございました。

 

●●プロフィール●●
神田紅氏
講談師、エッセイスト。サイバー大学客員教授。福岡県立修猷館高校卒業、早稲田大学商学部中退。大学在学中に文学座研究所に入所。その後プロダクションに所属し、有名女優の付き人をしながら演劇女優を経て、一九七九年に、講談師二代目神田山陽に入門。一九八九年十二月、真打に昇進。二〇一〇年四月、日本講談協会会長に就任。ラジオ、テレビ、映画などでも活躍。
著書に、『神田紅の語って紅伝』(西日本新聞社)『神田紅女の独り立ち』(産経新聞出版)など。

(『志るべ』2019年9月)