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※2017年に中村天風財団認定 はまかぜの会で講演いただいた内容を掲載しております。年数など、当時のものをそのままの形で掲載をしております。

10歳の時に病で腎臓を摘出。その後社会人となりライフワークとなる合気道と出会い、充実した日々を過ごす。30歳の時に慢性腎不全で人工透析を始め、障害者に。追い打ちをかけるように合気道にもドクターストップがかかり、絶望の中にいた時に『天風先生座談』と出会う。中村天風の言葉に励まされ、天風会に入会。天風会の行事に参加する中で、さまざまな人との出会いや経験を通して徐々に心も回復。その後合気道を再開することもでき、今では周囲に元気を与える障害者として、仕事、天風会、合気道と活躍中。

私の生い立ち

テーマの中にもある病ですが、いったい何の病かと申しますと腎臓の病です。
慢性腎不全という病で、週3回、1回4時間人工透析を受けております。もうかれこれ18年になるのですが、今でこそこんなに元気でいますが、ここに至るまでは大きな心と体の葛藤がありました。その暗闇から私を救ってくれたのが合気道と天風哲学でした。
まずは私の生い立ちからお話をさせていただきたいと思います。

私は昭和45年に横浜市港南区に生まれました。ですので今年はちょうど干支が4周回った48歳の年男ということになります。小さい頃の私は健康優良児としてすくすくと育ち病気らしい病気もせずに学校にも無遅刻無欠勤で通う子供だったと記憶しています。

身体の変化と入院

そんな私に変化が訪れたのは小学校4年生、10歳の時でした。この時期になると原因不明の片頭痛に悩まされるようになり、学校を休みがちになりました。今まで学校なんて休んだことがなかった訳ですから、本当に突然どうしたんだろうといった感じでした。
原因がわからないまま過ごしていたのですが、ある日、学校の尿検査で蛋白尿が多いということで、大きな病院で再検査ということになりました。結果は特に問題なく経過観察ということだったのですが、帰り際にお医者さんに「ちょっと待ってください。血圧を測ってみましょう」と言われ測ってみたところ、最高血圧が170mmHg程度。今と違って40年前は自宅で血圧を測るなんて習慣はなかったですし、まして子供なんで血圧が高いなんて思ってもいなかったんですね。
すぐに緊急入院となりました。
私自身何が何だかわからないまま入院となったのですごく戸惑いましたし、親はすごく心配だったかと思います。今、自分が同じくらいの子供を持つ身として当時の親の気持ちを思うとよくわかります。
結果、即入院ということになった訳ですが、高血圧の原因がどこにあるのかが分からず、1カ月くらいはいろいろな病院で検査をするという日々が続きました。
2カ月ほど経った頃に結果的に左の腎臓が悪いということがわかりました。
そして転院し、左の腎臓の摘出手術を行うことになりました。今なら、腎臓を残しながら治していこうという選択肢もあったのかもしれませんが、40年前の話ですので、悪いものは全て取ってしまえという時代だったのですね。腎臓はご存知のように2つあるわけですから、残りの1つを大事に維持していけば問題ないということだったと思います。
結果、2~3か月で退院できまして、その後は定期的に検診を受けつつも普通の生活を送ることができました。中学時代は部活でバドミントン、高校では身体をもっと強くしたいという思いから、空手の道場に通っていました。自宅から道場まで30分近く自転車で通い、稽古前に3km走って、2時間稽古という猛烈なことをやっていました。1日で体重が2kg変わるなんてこともありました。とにかくそのくらい元気になったということです。

人生の転機と合気道との出会い

そんな私に転機が訪れたのはそれから12年ほど経ったときです。
大学を卒業した私は地元の共同組合に就職いたしました。業務は貯金、融資、共済と言った保険、そしてお米や味噌や新茶も扱っているんですね。毎月、何かしらのノルマに追われ、朝は早く夜は遅い。
当時、同僚らとセブンイレブンと言っていました。かといって残業は一定時間超えたらつかないんですね。いわゆるサービス残業というものです。
転職も考えたのですが、結局、ずるずると勤めることになってしまいました。毎日、帰りが遅いので同僚と外食をしたり、飲みに行ったりしていました。このような不規則な生活だったので、ストレスから徐々に体重が増加し、気付いたら20kgも体重が増えてしまいました。当時は最大で体重が90kg近くまで増えたと思います。

一方でちょうど同じく大学を卒業したころ、合気道とも運命的な出会いを果たします。
きっかけは、学生時代にアルバイトをしていた時の仲間に当時の武蔵工業大学(現東京都市大学)の学生がいたのですが、実は彼は現役の合気道部の部長だったのですね。その彼から、「今度、私の大学のOBが道場を開くことになりまして、その道場開きがあるのですが、私も参加するので見に来ませんか?」と誘われたのです。当時、特に趣味もなかったので、気軽な気持ちで見に行ったのです。その時、合気道の演武を初めて見たのですが、何か面白そうだなと思って、その場で入門を決めました。今年、その合気道クラブは創立25周年を迎えるのですが、私が白帯の入門者としては第1号でした。この合気道との出会いが後の私の人生にとって大きな意味を持つことになります。
私の合気道の師匠は今崎先生と言って、人間的にもとても素晴らしい先生です。
実は今崎先生は大学卒業後に自由が丘道場で合気道を続けられ、その後イタリアに渡り合気道を修行されました。その自由が丘道場、そしてイタリア合気会を主宰されているのが、現在合気道界の中でも最高の師範である多田宏先生です。
多田先生は何をかくそう天風先生から直接教えを受けた直弟子です。ですので、私が天風哲学に最初に触れたのは多田先生の直弟子である今崎先生を通じてということになります。

多田先生の系列の道場は「多田塾」と呼ばれています。大きな特徴としては、稽古に「氣の錬磨」と呼ばれる呼吸法や瞑想法があることです。稽古が始まると先ずは準備体操前に呼吸法から入ります。合気道的に若干アレンジが加わってはいますが、呼吸操練も行います。一人マッサージの一部も準備体操に加わっています。普段の稽古ではこの位ですが、多田先生の欧州の「氣の錬磨」の稽古では、テレパシーや竹斬りなども行うようです。
多田先生は合気道を「氣の錬磨」7割、技3割とおっしゃっておられます。
本当に天風先生の教えを大切にされているということがよくわかります。

ちなみに多田先生は御年89歳。今年卒寿を迎えられます。いまだに現役で学生に稽古をつけておりますので、本当に偉大な先生だと思います。

私が入門した道場が天風哲学の流れを組む道場だったのは、凄く幸運だったと思います。
そしてこの道場で20年以上前になりますが出会ったのが鷹野さん(はまかぜの会代表)ということで不思議な縁を感じます。ちなみこの合気道クラブの師範代の方の奥さんの勤め先で管理栄養士をしていたのが私の奥さんで、ご紹介をいただき結婚をいたしました。これも合気道が取り持つ縁と言えます。

そして障害者に

さて、このように合気道に出会えて充実した日々を送りながらも、一方で身体の方は徐々に悲鳴を上げてきておりました。そしてとうとうお医者様から、「あなた、このままでは大変なことになりますよ」と宣告されました。先ほど申し上げたように体重が増加してきていましたので、腎臓に想像以上に負荷がかかってしまっていたのです。私の経験ですけど太ってしまった人というのは、ある意味、心の病なのではないかと思います。周りからは「痩せなさい、太りすぎだ」と言われても本人に全然自覚がないものですから、気が付かないのです。私の場合はそうでした。ところがこの時、お医者様に言われてようやく目が覚めたんですね。このままではヤバいと。そしてそこから約半年かけて20kgの減量に成功しました。減量の方法はいたってシンプルで、朝と昼は普通に食べるのですが、夜は脂っこいものを一切抜きました。これだけで運動もしているので体重は落ちるのですね。
こうして元の体重に戻した訳ですが、時すでに遅しということが。クレアチニンという血液中の老廃物を測る数値が正常な人の数値は1以下なのですが、私の場合は人工透析の基準値である8を超えてしまい人工透析を宣告されることとなりました。それが私がちょうど30歳になったときです。
そして人工透析を受けるための手術を受けることになります。
人工透析とは腎臓が機能不全になったことで、その機能を機械を使って補う治療法のことです。腎臓で体内の老廃物をろ過して尿に分解し体外に排出するわけなのですが、腎不全になるとこの機能が弱まってしまうので、ほっておくと体内に尿毒素が溜まって、尿毒症という病になって死んでしまいます。従って人工透析によって血液のろ過と水分の除去を行うわけです。人工透析を行うには太い針を2本片腕に刺して体内から血液を抜いて機械でろ過してまた体内に戻すわけですが、普通の血管ですと血液の圧力が弱くて引けないんですね。そのため、手首のあたりで動脈と静脈を結合するバイパス手術を行って血液の流れを強くする必要があります。これをシャントというのですが、私の場合、これが2代目です。初めての手術は大きな病院で大掛かりで行ったのに、数カ月で使いものにならなくなってしまいました。仕方なく地元の形成外科で2度目の手術を行ったのですが、ここはドクター1名、看護師1名のこじんまりしたところで、「正直、大丈夫かな?」って思ったのですが腕は確かでした。その後、15年近く使っていますが何ともないです。
話は戻りまして、最初の手術を終えて家に着いた時、とうとう障害者になってしまったということへの深い後悔の念が湧いてきました。
10歳の時とは違い、自らの招いた過ちでせっかくこの世に生まれ与えられた身体を台無しにしてしまったという慙愧(ざんき)の想いが強くなり、自分の愚かさに自暴自棄になってしまいました。
まだ人工透析になる前ですが、人工透析になると血管がもろくなって10年しか持たないとか、長く生きられないなんて噂が耳に入っていたので、自分の命はあと何年しか持たないんだという絶望の気持ちが心を支配していました。しばらくはふさぎ込んで「死」を身近に感じるところまで落ち込んでしまいました。

絶望からの救い 天風会入門

人工透析を宣告されて、私にとって唯一の心の支えでもあった合気道もあきらめなければならなくなりました。最もこの時は、合気道はできないと勝手に思い込んでいたのですが。更に残念なことに、道場開きの日に入門した私は道場初の黒帯にあと一歩というところでした。そのため腎不全が進行しているのにも関わらず、稽古をだましだまし続けていました。いよいよドクターストップということになり、初段を目の前にして断念せざるを得なくなり、このことも私の心を大きく落ち込ませる原因になりました。
そんな時、当時、合気道を一緒に稽古していた鷹野さんから一冊の本をいただきました。それが『天風先生座談』でした。その時は天風先生のことはあまり存じていなくて、鷹野さんが天風会の方ということは知ってはいたのですが、まだそんなに関心があるわけではなく合気道を通じてしか知らなかったと思います。特にやることもなくボーっと過ごしていたので、その本を読んでみたのです。『天風先生座談』は天風先生の話口調で書かれていますから、読みやすいんですね。
読んでいるうちに天風先生の言葉が自分に直接、語りかけてくるのです。
「病は活きる意味を天が悟らせるために与えてくれたものだ。幸福だと思いなさい。」
「病は病だ。苦しみは苦しみだ。たとえ身が病に罹ったとしても心まで病ます必要はないだろう」
という言葉に、本当に号泣しました。正に自分の心に響いたのです。天風先生が本の中から私に直接、語り掛けてきた気がしたのです。
本を読み終わった後、いてもたってもいられなくなり、すぐさま、鷹野さんに電話を致しました。「鷹野さん。私、天風会に入りたいんです。」鷹野さんは快く受け入れてくださり、当時の鎌倉賛助会(現中村天風財団認定 鎌倉の会)に入会することになりました。確か2000年ころだったと思います。
鎌倉賛助会では妙本寺の行修会や体操教室、春の江の島修練会、夏の修練会など積極的に参加いたしました。初めて参加した夏の修練会で特に印象に残っている出来事があるのでひとつ紹介します。
天風先生の誦句を皆の前で一人で暗誦するという項目がありました。最初は短い誦句から行うのですが、初めのうちはあまり自信がなかったせいか中々手を挙げても当たりませんでした。「翌日は長い誦句を覚えてきてください」と言われたのでその日に帰ってからひたすら「統一箴言」を暗記したのです。
風呂場の中でも寝る前にも何度も何度も。気持ちの中では「統一箴言」だけは絶対に自分が暗誦すると決めていたのです。翌日、案の定「統一箴言」言える人と司会の方が言われたので、心の中で「当たれ」と念じて手を挙げたら、見事に当たりました。輔導の方が横でサポートについてくれたのですが、私は「とにかく一人で暗誦する、絶対にやる」と思っていたので、一人で一字一句間違わずに暗誦しきったのです。終わってから会場中から大きな拍手をいただき、隣にいた輔導の方が感激して、後で尾身幸次先生のサイン入りの『安定打坐考抄』の本をプレゼントしてくださいました。その輔導の方が現理事長の大久保さんです。この時、信念は必ず成就するものだということを身をもって経験いたしました。

天風会から再び合気道へ

ほかにも修練会で班長をやらせていただいたり、講演会の前講で話させていただいたり、さまざまな人との出会いや経験をさせていただき、徐々に私の心は回復していきました。
天風会で約2年ほどお世話になったある時、ふと「合気道に復帰したい」という気持ちが強くなってきました。医者からは「シャントが故障するリスクがあるから止めた方がいい」と言われたのですが、私は絶対に問題なくできるという確信みたいなものがあったので、手首には野球選手がする厚めのサポーターを巻いて自己責任で復帰いたしました。
そして復帰して間もなく、審査を受け念願の初段をいただくことができました。
初段は私の師匠でもある今崎先生の元で受けたのですが、続く弐段の審査では、多田先生の審査を受けさせていただきました。普段、お目にかからない神様のような先生の審査ということで緊張もしたのですが、先生の発する「氣」のようなものを身近で感じてしまって、自由が丘から横浜に帰る東横線のホームで立っていられなくなってしまったことを覚えております。
何かエネルギーが抜けてしまったような不思議な感覚でした。多田先生は若いころ、天風先生の受けを取っていた方なので、あらためて凄いなと体感した次第です。

転職と現在

そして、しばらくは合気道と天風会の二足の草鞋を履いていたのですが、私生活の面で大きな変化が起きました。2004年に子供が生まれたことを転機に共同組合を退職して以来お世話になっていた地元の不動産会社を退職し、転職することにいたしました。不動産会社と言っても実態は不動産管理が主な仕事であったので、身体に負担はかからない分、給与は安く、障害者年金をもらってはいましたが、子供を養っていくには不安だったので、将来のことを考えて障害者の転職サイトに登録いたしました。転職した会社は某生命保険会社だったのですが、共同組合で働いていた時に共済という保険を扱っていたので、転職サイトの担当者に勧められて受けたのですが、かたや上場企業かたや地元の共同組合では規模が違います。
PCスキルなんてものは全く持っていなかったのですが、家族のために絶対に転職すると決めていたので、妙な自信みたいなものがありました。おかげさまで無事に採用になりました。後で配属先の上司に聞いた話では、人事担当者が面接で絶賛していたと聞いて嬉しく思ったのを覚えています。転職してからも障害者だとわからないくらいに働いております。人事からは「荒井さんのおかげで障害者採用のハードルが高くなってしまった」なんて言われています。

私生活でも家族を持ち、新しい仕事にも就いたことで、経済的な安定は確保されてはきましたが、そうなってくると中々自分の時間を持つことが難しくなってきました。合気道はライフワークとして続けていましたが、天風会の活動には中々参加するのが難しくなってきました。しばらくの間、休会をしていたのですが、ある日、鷹野さんが横浜で天風会の活動(はまかぜの会)を立ち上げたことを知り、鷹野さんの下で再び天風哲学を学ぼうと思い復帰した次第です。

合気道の方はおかげさまで順調に稽古を続けており、今年の1月に今崎先生から推薦を賜り、五段に允可(いんか)して戴きました。また5月には全日本合気道演武大会にて日本武道館で神奈川県代表の指導者演武という名誉ある舞台に出させて戴きました。本当に信じられないのですが、障害者になってからも長く続けてきたかいがあったと思います。
若いころは合気道を2時間3時間、土日も稽古三昧だったのですが、今では土曜の朝に子供と一緒に稽古して夜は1時間だけ大人クラスで稽古しています。本当はもっと稽古したいのは山々なのですが、長く続けていきたいので、疲労が残らないように量よりも質を高める稽古をするようにしています。
若いころのようにがむしゃらにやるのではなく、できるだけ氣の流れを意識するような稽古を目指しています。

合気道と天風哲学から学んだこと

こうして現在に至るわけですが、今でもたまに身体の具合が悪くなることはあります。一昨年は原因不明の貧血に襲われ、特に夏場になると血圧が急に下がってしまって立っていられないということが度々ありました。最高血圧が100mmHgを切ってしまって。普段、透析患者は130mmHgとか150mmHgとか健常者よりも若干高い数値なので、もうふらふらな状態です。でも依然と違って、心までは病むことはなく、休めと言っているんだなと思って、半年くらい合気道の稽古をお休みしていました。
その分、毎日、寝る前に20分~30分「氣の錬磨」という呼吸法と瞑想法の稽古をしておりました。
プラナヤマ法に始まり、クンバハカによる呼吸法、養動法、安定打坐、自分なりのルーティンを組んでこれを1年近く続けていたのです。ほぼ休むことなく。そうしたら貧血もしだいに治まってきました。
それと思わぬ副産物なのですけど、毎年、会社で健康診断を行うのですが、普段パソコンを使う仕事をしているので、段々視力が落ちてきたのですね。視力だけは良かったのですが、運転時に眼鏡が必要になるところまで落ちてしまい、歳だから仕方ないかなんて思っていました。
ところがこの「氣の錬磨」を1年近く続けていたら、両目の視力がなんと1.2まで回復していたのです。看護師さんに「荒井さん。本当に裸眼ですか?コンタクトしていませんか?」と何度も疑われて。でも本当の話です。
ここから学んだのですが、合気道の場合は、昇級昇段していくためには稽古日数が必要なので致し方ないところはあるのですが、多少無理しても道場で稽古することが目的になっていたのですね。
もちろん相手がいなければ合気道の技はできないしストレス発散というのもありますし。これは凄く大切なことなんですけど、真の目的はやっぱり人生を健康で楽しく幸せに活きるために稽古するのであって、無理をして稽古をしても意味がありません。大体、心が乱れていたり体調が悪かったりしていると技も乱れます。合気道は氣を合わすと書きますが、様々な相手と組みながら心と体のバランスを整えていき、お互いを高めていくことが醍醐味です。多少、元気がない時は稽古をすると元気になることもあります。これは天風会の行修会も同じことが言えます。

大事なのは稽古や行修で学んだことをいかに実生活で活かしていくか。ここに尽きるかなと思います。
だから合気道ばかりして家庭を疎かにしてしまうというのは、本末転倒だと思います。
私も上の娘の時は、その本末転倒なことをしていたのでこれは大きな反省でもあります。幼稚園の行事よりも合気道を優先していたなんてことが多々ありました。だから、下の息子はまだ5歳なのですけど、なるべく土日は一緒にいる時間を作ろうと思っています。
子供は大きくなれば巣立っていきますので、そうしたらいつでも自分の時間はできます。

多田先生のお言葉に「道場は舞台裏。日常が本舞台」というお言葉があります。私が思うに普段の稽古を怠らず、実生活で、稽古で身につけた教えを活かすということが大事なんだろうと解釈しています。
少し話が脱線するかもしれませんが、実は私の妻が昨年から土日だけパン屋のパートを始めました。娘の教育費の足しになるのと、家にいて家事育児ばかりしているとストレスが溜まるので、外に働きに出ることで気分転換を図る意味も兼ねてです。パン屋は朝が早いので、帰ってきてから家事をやるのはさすがに大変だろうということで、私が土日に家事をやることになったのです。
お恥ずかしい話、私、いままで一人暮らしの経験もなく、正直面倒くさいなと思っていたんです。
朝、起きて子供たちを起こして食事の準備、掃除洗濯、大変なんですね。お昼も夕飯も何を作ろうか。買えば簡単なんですが、食費もかかるから、なるべく冷蔵庫の中のもので作るのですが、作っても1品2品しか作れないんです。でもふと思ったんです。奥さんは結婚してから15年近く、毎日欠かさず、バランスよく何品も用意してくれている。まして透析中のお弁当も週3回手作りで。ほかの透析患者さんは業者に頼んだ弁当ですが。あらためて凄いな。ありがたいなって。
自分が家事をやるようになって奥さんの大変さとありがたさがわかりました。
会社とかで話すと「荒井さん家事やってるの。偉いね」なんて言われますけど。本当に偉いのは奥さんなんですね。世の中のご主人さんもやってみるとわかりますよ。

合気道も天風哲学も共通していることは「氣」だと思っています。「氣」って目には見えませんけど「氣」が合うとか「氣」を使うとか「氣」配りするとか。日常生活では「氣」を使う言葉って一杯あるわけですね。なので目には見えませんが、「氣」って存在するものだと思うのです。
でも、そういう目には見えないものって、中々普段の生活では身につけられるものではないと思うのです。
社会に出ると己の我を通したり、自分勝手なことをしたり、気が利かなかったりなんてことは多くあると思います。そうなると仕事がうまく回らなかったり、職場の雰囲気が悪くなったりして生産性が低下して悪循環に陥るなんてことがあります。
だからお互いに「氣」を合わせたり、「氣」を配ったりすることはとても大事なことだと思います。
私は仕事柄、初めてお会いする方に対してお話しする機会が多いのですが、自己紹介するときに、自分が障害者で人工透析を受けていることを平気でカミングアウトします。別に隠す必要もないですし、言う必要もないのですが、別に同情を買おうとしているのではなく、むしろその逆で決して悲観的ではなく、明るく元気に振る舞うのです。時には相手を鼓舞するというか元気づける意味で。
内部障害なので言わなければ誰も気づかないのですけど、ただ、手首にサポーターを巻いているので「怪我したの?」なんて言われることはあります。「いえ、実は私、人工透析を受けていまして」なんて言うと、大抵、皆さん驚かれます。
でも逆に元気に対応していると、明らかに相手も元気になってくるんですよね。「この人、障害者なのに何でこんなに明るいんだ?」とか。会社では「日本一明るい障害者」なんて言われていますが。
私みたいな障害者でもこうやって相手に元気を与えることに繋がれば、病を持った意味があると思うのです。障害を持ったことは決して不幸なことではなく、本当の不幸は障害者として甘んじる活き方をしてしまうことだと私は思っています。
いま、障害者保護法とかダイバーシティと言った障害者が働きやすい環境などは徐々に整備されてきており、障害者の立場としては大変ありがたいのですが、障害者としての生きる意味を障害者自身が自覚していなければ絵に描いた餅になってしまいます。
「私は1級障害者ですが合気道5段です」って言ったら良い意味でインパクトありますから。

最後になりますが、私の人生で合気道と天風哲学に出会えたのは本当に様々な偶然が重なった訳なのですが、これも私の運命だったのかなと思っています。
10歳の時に病になり、腎臓を失ったのは確かに宿命だったのかもしれません。
天から与えられたこの命題をどうするか?その後の人生で試されたわけですが、30歳で自らの過ちで悪化させてしまい腎臓の機能を失うことになってしまいました。ここでこのまま落ちていくこともありえたわけなのですが、私を見捨てることなく、その後素晴らしい教えと、活きる意味を与えてくださったことに本当に感謝しています。
あの世では現世の地位もお金も名誉も皆、置いていかないといけません。持っていけるものがあるとしたらそれは、魂だけです。でも魂は現世での経験や行いでしか磨くことができない。だからどう活きるかというのはあの世へ旅立つための修行なんだと常々思います。
つまり天風哲学を学び実践することは魂の磨き方を教えてくれることなんだと私は思っています。
これからも合気道と天風哲学を学び実践し、一人でも多くの人に知って戴くそんな活動に従事できればと思っています。

荒井俊之|保険会社勤務
(2019.11.29掲載)